上の言う事を聞く事が道徳なのか?

今でも道徳教育等が必要だというが、私には道徳を養おうとしている様には見えない。教師や会社の上司など上の立場の人が「黙って俺の言う事を聞いて従え」と言っているだけのものにしか見えないのだ。

黙って上の言う事を聞いて従う事が道徳かもしれないが、そうじゃなかったとしたら道徳とは何なのかを考える。

 

 

まず道徳は他人と付き合い始めてから生まれた価値観である。そもそも自分一人が生きていくだけなら道徳は必要ない。国家にせよ、組織にせよ、社会にせよ、人が集まるのは生き残る為であり、危機からの防衛の為である。

 

 

その為、道徳はその集団が生きる為に生まれたものであり、

集団で生きる為に必要な共存共栄、

その集団が生き残る為に必要な自主防衛、

危機に立ち向かう為に必要な一致団結、

これらが道徳の本来の基本なのではないだろうか?

 

 

共存共栄は集団の中に混ざって生きる為である。

集団の中では上下関係とか、優劣とか、強弱とか、支配とかは、外見的にはあるが共存共栄としては大事ではない。一人一人が己の意志を持った独立自尊が必要であり、他人に対しても平等に自由を尊重する寛容さも必要である。

 

 

防衛は個人だけでは無く、社会、組織、国家としても自分で守る必要がある。他者に守ってもらう状態になると、自分を活かすも殺すも他者の心次第になる。

しかし我々が生きるか死ぬかは他者では無く自分で決めるものであり、そうする為には自主防衛するしかない。

 

では何から守る必要があるのか?自分達の在り方を破壊する可能性のある者である。

それには自分達がどうありたいのかを明確にしておく必要がある。なぜなら何を守ったらいいのか、なぜこれに注意しなければならないのが分からなくなるからである。

 

 

一致団結は集団が危機に立ち向かう為であり、集団を守る為にその集団の一人一人が持つ必要がある。危機に対して防衛しなければならないのに、権力争いとか、政権の取り合いとか、個人が争い合ったり価値観が混沌としたら、それは最終的に自滅する可能性があるからだ。

 

 

共存共栄、自主防衛、一致団結、この3つが道徳の基本であると考えている。

 

私の考え方は可笑しいかもしれない。「黙って上の言う事を聞いてればいいんだよ」と言う人もいるだろう。しかし、それでは集団の中で生きていると言うよりも生かされているのではと思うし、そうすっぱりと従っていられないのが人間ではないだろうか?

 

文化を守りたいなら力ずくな方法は避けるべき

文化は今なお生き残っているものもあれば、とっくに滅んだものもある。

文化を必死に金や権力で生き残らせようとしたり、潰そうとしたりするのは文化を大事だと思っての行為ではなく、文化を利用したいだけだ。「昔からある文化だから守るべきである」と言う言葉も、既に持っている自分の権威、名誉、居場所の保守の為でしかない。文化を守りたいなら力ずくな方法は避けるべきである。

 

なぜなら物事を金や力等の形而下的手段以外で解決するから文化なのだ。

 

弱肉強食の世界において、そのまま弱者が死んだら文化じゃなく自然の摂理というだろう。しかしなぜか強者が弱者を保護したり、守ったりするから文化になるのだ。

 

文化を守りたいならその価値を示す義務を伴う。なぜなら後世の人は価値を理解しないとその文化を続けないからだ。

その文化をただやり続けるだけでは生き残らない。「伝統文化は守らなければならない」と義務にするのは継承の強要であり、残ったとしてもその本来の価値まで理解しているかは不明になる。

 

価値を伝えず形だけの文化になると唯の行事と化し、もう文化の意味が無くなる。もし文化として本当に立派だとしても、後世の人に「私はやりたくない」と言われたらその文化は潮時である。

 

今文化はあまりにも多様になり、複雑と化し、混乱してきている様に思える。もしこれが続いていくと、何を信じればいいのか分からなくなる日が来るのではないだろうか?

今家族や結婚といった人間関係、労働、教育、宗教、他人に対する理解などの価値や意味が崩壊し始めている気がする。他にもあるだろうし、この中に本当に大事なものもあるかもしれない。だが「やりたくない、欲しくない」と思われている様ならどんな文化も崩壊する可能性がある。それを無理矢理になんとかしようとするのは逆効果になるだろう。

 

文化が大事だというなら、その文化の持つ重要な価値と意味が何なのかを示す事を重視した方がいい。これは文化という括りで語ってはいるが、教育や道徳も同様だろう。

哲学者の本を多く読むべきではない

哲学がどういうものかを勉強しようと哲学者の本を色々読み漁ったりした事はあるだろうか?私はせいぜい4、5人程度のものだが中にはもっと多く読む人はいるだろう。だが私は哲学者の本を多く読むべきではないと考える。

 

哲学とは自分で考えて自分で答えを出す事だからだ。

 

哲学者の本を読む事自体を悪いとは思わないのだが、哲学を知りたくて哲学者の本を読む事は哲学しているとは言えない。それは考えている振りをしているだけだ。実際に哲学者の本を読んで哲学を学ぼうとすると、「この人がこう言っているから正しい」という思考になってしまう。

哲学の真髄は自分で考えて答えを出す事にある為、「この人がこういっているから正しい」という結論で終わるのではなく、「誰がなんと言おうと私はこれが正しいと考える」という結論で終わる方が自然である。自分で考えて答えを出して、初めて哲学していると言えるのだ。

勿論答えは間違っているものもあるだろう。ただしそれは自然科学などの絶対的な答えがある問いであって、人生とは?人間とは?自分とは?といった絶対的な答えが浮かばない問いは間違っているのかさえも分からない。なぜならどうとでも言えてしまうからだ。だが答えは幾らでもあるだけでなくどうとでも言えてしまうのだからこそ、自分はこう考えるという意志や信念の様なものがないと自分という人間が分からなくなるのだ。

私が哲学に興味を持つ様になったのは、社会人になって周りを見渡して見た時、今まで教わってきた常識や見解がまるで通用しないと気づいた時だった。まず思ったのは、自分の見識が間違っているか、社会が間違っているのかの二つの可能性がある事だった。そして段々調べていくうちに、どっちが正しくてどっちが間違っていると絶対的に判断出来ないという結論に至ってしまった。なぜならどっちにもとろうと思えばとれるからだ。だから私は客観的に正誤判断していく様な思考を止め、主観的に思考する事にして、私は「哲学とは自分で考えて自分で答えを出す事」という結論に至った。

 

自分で考える事を重視する哲学者はカントやショーペンハウエルが書いていたとは思うが、わざわざ読む必要はない。実際私も読んでいない。わざわざ読まなくても自分で考えていけば同様の結論に至るし、中には彼らを超えられる可能性があるからだ。

今歴史に名を残せる程の哲学者はいるのか誰にも分からない。だがそういう人は今もなお自分で考え続けているはずだ。

はじめに

初めまして、ブログを始める事にしたmirrordgeです。

大したブログにはならないかもしれませんがよろしくお願いします。

 

まず、何でブログを始めるに至ったのか説明します。

 

以前書いた経験はありましたが、結局そのブログは今ありません。

その理由は、「自分が世の中に向けて書いた所で何の役にも立たない」と思う様になったからでした。

「書いた所で多くの人は見ない」「見ても大したものではない」「世の中を変えるのは結局の所自分ではない」等の理由が膨らんでいき、ブログをやる事が段々ばからしくなってブログを消してしまいました。

 

しかし数年経って、自分が意見を主張する事が出来るにもかかわらず、主張して自分を表現する事に段々と億劫になっていることに気づきました。

 

これはうつ病に近いものだと思います。

絵が描けなくなったり、行動出来なくなったり、自分の意見を主張出来ないといったものは、自分を表現しても否定されると分かっているから起こる心理現象なのではと考えています。

叩かれたり、無視されたり、傷つけられたりする事で、その内に自分も自分を否定する様になり、「どうせ否定されるのに自分を表現してどうする?」と、自分を活かす事をしなくなってしまいます。

そんな人間がやる事は何もしない事であり、もしくは自己否定、自己破壊に走る事になるでしょう。

自分で自分を否定している以上、周りが何か言い聞かせても意味はないし、慰めの言葉等ではそう簡単には治りません。

言葉だけでは否定されてきた事実をひっくり返せないからです。

 

私はこのままだとうつ病になり、自信を持つ事が一生できなくなるだけでなく、自殺する可能性があり得た為、自分を好きになって自分を活躍させる事で自信を回復しようと思い、世の中に主張する事の出来るブログをもう一度やる事に至りました。

 

書く内容は今はまだ限定してはいませんが、私は哲学や漫画、映画等の創作、美術等が好きなので、これらから始まるでしょうが、これからどんどん分野は増えていく事になるでしょう。大した内容にはならないでしょうけど、今は書いて表現する事をより多くしていく必要があるので更新はなるべく早くしていこうと思います。

 

それではよろしくお願いします。